アの声は静かだっ

2016年03月07日

「グエリグの指輪!」トロールは勝ち誇った声で叫んだ。「エレニアのスパーホークがグエリグの指輪を持ってきた。指輪があるのを感じる!」恐ろしい咆哮を上げて、トロールは棍棒をうならせながら突進した。
 クリクの棘つきのフレイルが、トロールの太い左腕からかなりの量の肉をむしり取った。しかしグエリグは気にも留めない様子で、なおも棍棒を振りまわしながらスパーホークに追い迫る。左手はまだしっかりと王冠を握りしめていた。
 スパーホークはじりじりと後退した。グエリグが王冠を握っているあいだは、滝壺の深淵から引き離しておかなくてはならない。
 クリクがさらにフレイルを振るったが、グエリグはあわてて身をかわし、鎖の先の棘つきの鉄棒は毛深い腕をとらえることができなかった。どうやらさっきの一撃が見た目以上に苦痛を与えていたようだ。スパーホークはその一瞬の隙を衝《つ》いて、グエリグの右肩に槍を突き刺した。グエリグは痛みというより怒りのわめき声を上げ、すぐに棍棒で応酬してきた。
 と、スパーホークの背後からフルートの歌が聞こえた。澄んだ歌声が鐘の音のように、滝の轟音にもかき消されることなく響いてくる。グエリグの目が丸くなり、残忍な口がぽかんと開いた。
「おまえ!」グエリグがわめいた。「グエリグは小娘に仕返しする! 歌はここで終わる!」
 フルートは歌いつづけ、スパーホークは危険を冒してちらりと肩越しに視線を投げた。通路の出口のところに少女が立っていた。背後にセフレーニアを従えている。歌はどうやら呪文ではなく、単にグエリグの注意をそらして、スパーホークかクリクが怪物の隙を衝けるようにしているだけらしかった。グエリグは棍棒を振りまわしてスパーホークを牽制《けんせい》しながら、よたよたと前進した。目はフルートを睨《にら》みつけ、食いしばった牙の奥から激しく息を吐き出している。クリクが背中を一撃したが、グエリグは攻撃されたことにさえ気づかない様子でスティリクム人の少女に向かっていった。スパーホークにとっては好機だった。トロールが目の前を横切りながら棍棒を振るったため、毛深い脇腹ががら空きになったのだ。スパーホークは全身の力を込めて、古代の槍の広い穂先を肋骨のすぐ下に思いきり突き立てた。剃刀《かみそり》のように鋭い刃が厚い毛皮を貫通し、矮躯のトロールは咆哮した。棍棒を振りまわそうとするが、スパーホークは槍を引き抜いて飛びすさった。そこへクリクがグエリグのねじれた右膝にフレイルを叩きこんだ。骨の砕ける不気味な音が響く。グエリグは転倒し、棍棒を取り落とした。スパーホークは槍を逆手に持ち替え、トロールの腹に突き立てた。
 グエリグは絶叫し、右手で槍をつかんだ。スパーホークは槍を何度もこじって、鋭利な刃で内臓をずたずたにした。しかし王冠はまだしっかりと左手に握られている。手放させるには殺す以外になさそうだった。
 トロールは地面を転がって槍から逃れたが、そのために傷口はさらに大きく広がった。クリクがフレイルを顔面に振るって片方の目をつぶす。恐ろしい叫びが上がり、トロールは貯めこんだ宝石を蹴散らしながら滝壺へ向かった。そして勝利の雄叫びとともに、サラクの王冠を握りしめたまま深淵に身を躍らせた!
 しまったと思いながら、スパーホークは深淵の縁に駆け寄って、絶望のうちに滝壺を眺めた。はるか下方にねじくれたトロールが、想像もつかない闇の中へと落ちていくのが見えた。と、洞窟の石の床を踏む裸足の足音が聞こえ、フルートが漆黒の髪をなびかせて騎士の横を通り過ぎた。恐ろしいことに、少女はためらうそぶりも見せずに縁を越え、落ちていくトロールのあとを追った。「何てことを!」スパーホークは息を呑み、あわてて手を伸ばしたが、少女をつかまえることはできなかった。驚いたクリクも駆けつけてきた。
 そこへセフレーニアもやってきた。サー?ガレッドの剣をまだ手にしている。
「何とかならないんですか、セフレーニア」クリクが哀願した。
「その必要はありませんよ、クリク」セフレーニた。「あの子の身に危険はありません」
「でも――」
「しっ、静かに。耳を澄ましたいのです」
 はるか頭上で雲が太陽の前を通り過ぎたかのように、滝の水に反射する光が少し弱くなった。轟く滝の音が騎士をあざけっているように聞こえる。スパーホークは自分の頬《ほお》が涙に濡れていることに気づいた。
 と、深淵の深い闇の底に閃光のようなものが見えた。その光は徐々に強さを増しながら、無明の闇の中を上昇してくるように思えた。近づいてくるにつれて、はっきりした形が見えはじめた。それは純白の光の棒で、先端だけが強烈に、青く輝いていた。
 ベーリオンだった。白く輝くフルートの小さな手の上に載ったベーリオンが、深淵の底から上昇してくるのだ。スパーホークは息を呑んだ。フルートの身体を通して向こうが透けて見えている。闇の中から上昇してきたものは、霧のように実体がなかった。フルートは小さな顔に冷静で落ち着き払った表情を浮かべ、片手でサファイアの薔薇を頭の上に捧げ持っていた。もう一方の手でセフレーニアを差し招く。愛する教母が深淵の上に足を踏み出すのを見て、スパーホークはぞっとした。
 しかしセフレーニアは落下しなかった。


Posted by やそれでは at 11:17│Comments(0)
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。